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種村と初種山善教寺


種村と初種山善教寺

都を大津に遷された天智天皇(625~671)が五穀の種をこの種村の地に播かせたところ、多くの実を結んだことからこの地を霊地とされ、天智天皇の弟である天武天皇の天平年間に奈良東大寺を建立した僧行基(668~749)が霊地に勅願所として、初種山善教寺を開山し、寺の本尊は観音大士であると東大寺に残る「三綱記」に記されています。そして五穀豊穣を願って建てられた「初種山善教寺」の門前にできた集落は“種村”と呼ばれるようになりました。

[「滋賀県 神埼郡 能登川町 種村」平成18年1月1日、市町村合併により「滋賀県 東近江市 種町」となる]

三綱記によりますと、寺は二丁四方四町歩(200メートル四方4ヘクタール)で周りは堀で囲まれ、観音堂・釈迦堂・薬師堂など18棟のお堂と、寺を守る白鳥神社が建てられた」とあります。白鳥神社は、能登川地区では神郷の乎加神社に次ぐ古いお宮であると「能登川町史」にも記されており、善教寺の周辺には、堂前、堂ノ辻、浄土、古浄土、鳥居本、堂尻などの地名が今も残っています。

本尊の観音大士は災禍に遭い現在の本尊は平安時代に修復された千手観音で能登川町の文化財指定を受けています。

また、開山当時からの釈迦堂像も幾多の災禍に遭っておりますが、その都度、佛頭のみを取り外して避難していましたことから、佛頭のみが滋賀県重要文化財の指定対象となっており、古仏として朝日新聞社発刊の「日本の仏像」でも紹介されています。そして、釈迦坐像をお祀りしている釈迦堂は、元禄の再興以来古く傷んでおりましたものを、昭和30年代、種村のほとんどの方々が有志となり改築され、老人会のみなさんが、お釈迦様の誕生日の「御誕会(ごたんえ)」、悟りをひらかれた「成道会(じょうどえ)」、お亡くなりになった「涅槃会(ねはんえ)」と年三度のお供養をされ、老人会は種老人クラブとなった後も平成17年度までの50年間、丁重かつ盛大に続けておられました。

そのほかに「籾佛さま」も祀られています。田植えが終わった頃に三尊佛供養として祀り、柿の葉に飯を盛ってお供えし、実りの秋を祈願していたもので、昭和41年8月10日の読売新聞で紹介され、滋賀県教育委員会文化財保護課で調査されましたが、確たる資料などの発見には至らず。籾佛さまはこの時期以外の、元旦とお盆の8月15日にも村の長(自治会長)の家または会議所でお祀りされますが、白鳥神社の神事として五穀の豊穣を占う「お管」とともに、これら一連の行為は、この地が霊地とされたときから続けられているのではないかと推測ができます。

善教寺は開山当時華厳宗であり後に天台宗となりましたが、信長により火を放たれ荒廃してしまいました。近江の守護佐々木の分家がこの地に城を構え種村氏(後に大橋と改姓)を名乗っておりましたのが、10代目の頃の出来事でした。この意志を継いだ11代目が貞享年中に再興したことは白鳥神社の社歴に記されるところです。そして、再興された寺に妙心寺から僧を迎えた後は、臨済宗となり、今日では檀家は三軒、住職は興福寺(今町)の住職に兼務でお世話になっている。

法堂寺(佐野地先で公園となっている)・野堂(新種の公園となっている辺り)・初種山善教寺・正楽寺(種地先で日本初のお祭りが行われたと思われる遺跡が出土した)を結ぶ道路は「近江路」の一部と云われ、此の一帯からは昭和40年に行われた発掘調査でも多くの鏃や斧などの石器が発見され、これら寺社よりも遙か昔から人々の生活があったことがうかがい知れます。

神郷の古墳出土から大中の弥生遺跡まで、私たちの能登川は早くから文化の栄えた地域であったことを証明しています。この地を誇り、この地域を大切にしてゆきたいものです。


<文:種村氏22代目/大橋氏>
by yokodiary | 2013-11-02 09:36 | お散歩・滋賀県 | Comments(0)

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